人吉球磨建築学

人吉球磨地域は鎌倉時代から江戸時代まで相良氏が治めた地域です。ここに残る歴史的建造物は他では見られない特徴みられます。3ヶ月毎に紹介しますので、ほかの地域でも似たような特徴があれば教えてください。みなさんと情報共有したいと考えています。
このコンテンツは希望者の方へ有料配信となります。「お知らせ」で確認して下さい。内容の疑問や質問、ご意見をお受けしてコンテンツを充実させて行きます。

リスト

01 室町時代の等間平面の寺院建築 人吉球磨地域には室町時代に建立された等間平面の仏堂が3棟残っていて、転用部材を含めると4棟になります。青蓮寺阿弥陀堂(1443頃)は五間堂、八勝寺阿弥陀堂(15世紀後期)は三間堂、宮原観音堂(16世紀中期頃)は三間×四間で、御大師堂(1676)の転用部材は五間堂のものです。
青蓮寺阿弥陀堂の一間は1,979~1,982㎜、八勝寺阿弥陀堂は1,967~1,984㎜、宮原観音堂は1,973~1,979㎜、御大師堂転用材の台輪真墨実測値は1,988㎜と1,994㎜です。鉄尺に換算すると一間はすべて6.5尺強で、柱間一間の長さが近い等間平面の歴史的建造物が一地域にこれだけ残っている地域は他になく、人吉球磨地域の中世仏堂の特色の一つと言えます。
02 縁の隅扠首を伸ばさない 社寺建築の縁は常に風雨に晒される場所です。そのため、縁廻りの部材は腐朽や蟻害が生じて、ほとんど建立後の改修で新材に取り替えられています。建立当時の縁の部材が残っている事例を修理工事報告書で確認すると一番古いものは広島県の浄土寺本堂(嘉歴2年1327、五間堂)で、「縁廻りは西側面前より三本目柱以北、東側面前より五本目柱以北及び北面全体が当初の状態で残存していた。その他の面でも縁葛などは位置を変更して当初材を再用していた。縁板受は完存し隅又首なども鼻先の部分を補修しながらも再用していた。縁束は二本残す他は部材を小さく工作して後世に新調し、束石も同様に殆んど新しくなっていた。
残存する当初材による形式は切目縁、縁の出(縁束真まで)一〇支の六尺、縁束を身舎柱通り立て、高欄なく、正面の昇階段木階五級であった。」と報告されています。
次は大阪府の厳島神社末社春日神社本殿(室町中期1393~1466、一間社)で、その次は滋賀県の長命寺護摩堂(慶長11年1606)、兵庫県の伽耶院本堂(慶長15年1610)です。江戸時代に建立された社寺建築も後世の改修工事で縁廻りの部材が取り替えられているものがほとんどで、700年程前に建立された浄土寺本堂の建立時の縁の部材が残っているのは奇跡と言えます。
03 肘吊りの桟唐戸 歴史的建造物の扉は、軸元框の断面円形の上下部分を藁座や幣軸の穴に入れて回転させる軸吊と、柱や方立に肘金金物を、建具の縦框に肘壷金具を打ち込んで組み回転させる肘吊の形式があります。軸吊は主に社寺建築の扉、肘吊は城郭の扉や社寺建築の門、民家の土蔵や軽量な建具に用いられています。
04 戸首が中央にある舞良戸 生善院観音堂
05 大径木材を割って製材した部材 青蓮寺阿弥陀堂、八勝寺阿弥陀堂、瑞光寺阿弥陀堂
06 ものさし 青蓮寺阿弥陀堂、岩屋熊野座神社本殿、生善院観音堂
07 裏目で設計された建物 山田大王神社本殿、十島菅原神社本殿
08 反らせた垂木 江戸時代までの社寺建築
09 明導寺阿弥陀堂細部の再考 明導寺阿弥陀堂の細部を再考してみましょう
10 田上又兵衛の軒 田上又兵衛の規矩術
11 太鼓型断面の桁 青蓮寺阿弥陀堂と厨子
12 中央で折れている茅負 八勝寺阿弥陀堂中古茅負
13 青蓮寺阿弥陀堂の当初軒廻り復原 残されている当初隅木から当初軒廻りを復原してみましょう
1
ホームに戻る
1